フニャフニャしてないかい? – その2

前回の続き

前回は1987年以降に生まれた人のちょっと不思議な生態について自身の怒りを吐露したつもりだった。今回もその続きを書いていこうと思う。

前回の記事

さて、続きの愚痴を書こう。私より下の年代の人たち(これからは面倒臭いのでフニャフニャな人、略してフニャフニャンと呼ぶことにする・・・)は前回も触れたが綺麗事や理論だけでなんとかしようとする。

もちろんそういう人ばかりではないが、今まであってきた人たちを見るとそういう人が多いように思う。ただ、それは彼らがそうなりたくてなったわけではないような気がするのだ。多分。KUJIRAの知っている範囲で悪いのはフニャフニャンの親たちのような気がしてならないのである。

KUJIRAは中学、高校と男子校だったがそこでは殴る蹴るの躾は日常茶飯事だった(単にKUJIRAの学年が言うことを聞かずに暴れまわっていたのが悪いと今では思うが)。それは部活でも一緒で何かにつけて練習は本当にキツイし、シゴキは辛いしで、なんで俺は部活をやっているのだろうといつも家で自問自答を繰り返していたものである。

ただ、フニャフニャンは違った。正確には2学年下だったのだが、その学年では先生のしごきに対して親が、団結してNOを突きつけたのである。先生も驚いただろうが、一番驚いたのはKUJIRAの学年や先輩たちの代である。辛いと思っても頑張ってやり通す。仮に本当に辛い状況の中であってもある程度は自分たちの力でどうにかする。それが普通だと思っていたところに簡単に父兄が入ってきたのである。その時の衝撃と言ったらKUJIRAの世界観が変わるほどのものだったのを今でも覚えている。

それは今でも変わらない。結婚に親が口出すのはいいとしよう。というか当たり前であると思うが、見合いでもないのに結婚相手を探すところから親がやっているのである。最近では就職にも親が出てきたりとかしてて、一体誰の人生なんだろうと普通に思うのである。

これが意味するところは何か。答えは簡単である。フニャフニャンは自分の意思で人生を歩けない。決断ができないのだ。常に報告、連絡、相談。そりゃ、報連相は大事である。でも、限度がある。ここからは持論だが、報連相というのは組織の中で一つの目標にみんなで向かう際に個々人が自身のマネージメントのために他と情報を共有しながら行動をするためのものである。ましてや、人生という肉親ですら方向性の違うものに対してはやるべきことではないのである。自分の人生は自分で決める。ある程度は協調しながらも生きていくことは必要であるが、自分の人生なのだから、部活や就活、恋人探しに親の顔色を伺うのはやめろと言いたい。

そんなことばかりしているから失敗を恐れるようになるのである。人生の先輩である親と一緒に相談を密にして行動すれば失敗は少なくなるだろう。しかし、それは自身の可能性に対する挑戦の放棄ではないのか?せっかく与えられた人生なのだ。若く、独り身なのであれば普通に生活している分には自分はともかく他人を巻き込む責任なんてそんなに発生しない。だから、周りを気にせず好きにすればいいのだ。

それは親の管理下である未成年でもそう。親や他人に迷惑がかからない範囲なら何してもいいのである。そこには将来のことで親や先生、友達と衝突が発生することもあるだろう。でもそれで得られることもある。それを若いうちに回避し、学んでこなかったから何かと頭でっかちになる。近道を探し続けるし、前回の記事でKUJIRAが書いたようにちょっと情報が共有されなかっただけで怒る。

情報というのは端から全て公開して共有するものではない。それなりに努力して自分で集めるものだ。共有しているのは自身にメリットがあるからであって、何が悲しくて全てをさらけ出さなければいけないのか。情報が欲しいなら自身で気を配って聞いたり考えたりすればいいのである。そんなこともできないぐらい鈍臭いのだとしたら本当に歳を取った時に真っ先に淘汰されるぞ。そうKUJIRAは思うのである。

今はどういう流れなのか考え、そこを汲み取ってうまく情報を引き出したり共有したりして欲しい。そしてくだらないことで怒って時間を無駄にするな。あと、情報の取捨選択には慎重であれ。

続く

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